外伝3.Arisia

part A













 ──『私』は、売られていた。

 いつから『そう』だったのかはもう覚えていない。それ以前のことは記憶にない。
 ただ『私』は売られるために存在し、嬲られるために存在し、欲求の捌け口となるためだけに存在した。
 血と性欲の匂いの中。『私』はそこに存在していた。『私』には名前がなかった。1037、という識別番号だけが存在していた。
 檻に閉じ込められていた。周りにも似たような檻がたくさんあった。一日に一回だけ食事は与えられた。三日に一回だけ頭から水をかけられた。
 後で知ったのだが、ここは質の低い奴隷の集まりだったらしい。
 同じように集められた小汚い少女たちが、それぞれの檻の中ですすり泣き、絶望する声を上げていた。
『私』だけが泣かなかった。
 世界はそういうものなのだ、と既に絶望してしまっていたからだ。いや、絶望という言葉すら当時の『私』にはなかった。『私』という意識はこの世界に存在していなかった。
 だから実のところ、当時の『私』は自分のことがよく分かっていなかった。あの頃は毎日を意識せずに過ごしていた。あの頃のことがよく思い出されるようになったのは、後日になってからのことだ。
 安い奴隷は売られた後すぐに殺されるのだと聞いた。『私』たちのような安い奴隷を買うのは、肉を切り刻むことを好む猟奇的な者が多いのだということだった。
 もちろん、その前に死にたいと思わせるほどの苦痛を与えられ、犯され、嬲られ、絶望することも許されないほど痛めつけられてから殺されるのだろう。
 それを待ち望んでいたということはない。だが、いつかはそうなるのだということは認識していた。それがいつ来るのだろうか、とふと考えたことはあったが、それを怖いとも思わなかったし望むこともなかった。
 現状が変化することで『私』が変わるなどということは考えたことがなかった。
 時折、客が訪れた。三日に一回くらいの割合で客は来る。
 客たちはいくつかの檻を眺めながら、気に入った娘を買い上げる。
 その際、奴隷の品定めをするということで、檻の中に入ってきて何度か平手で打ったり、性器を嬲っていくことは普通に許されていた。
 あまりにも無表情な『私』には逆に興味がわくのか、よく客が入ってきては痛めつけられた。だが『私』はそれでも表情を変えなかった。絶望しきっている『私』に対しては、客も興味をすぐに薄れさせたらしい。別の娘を買い上げて帰っていった。
 どれだけの時が流れたのだろうか。
 何人の客が私を殴りつけたのだろうか。
 ある日、また客がやってきた。もう『私』の意識はこの世界にはなかった。頭の中は真っ白で、一日一回の食事すら満足に食べようともしていなかった。がりがりに痩せこけて、このままここで命を落とすのだろう、とぼんやりとした意識の中で認識していた。
「しかし、魔王陛下にはこんな下層奴隷など……本当に質のいい、極上の奴隷を取り揃えておりますのに。やはり、魔王という職務はストレスがたまるのですか?」
 奴隷を管理している太った男がからかうような口調で言った。
「店主」
 低い、おそろしく迫力のある声が響く。
「……失礼いたしました」
 太った男はその、若くたくましい男に最敬礼で非を詫びた。
 魔王、と呼ばれた男は腰に剣を差し、禍々しい気を全身にみなぎらせていた。薄暗い牢屋にも映える金色の髪と闇色のマントがやけに印象的だった。
 彼の瞳は強い意志がこめられており、彼の肉体は全てその意思を実行するために活動していた。
 今まで、自分を品定めに来たどんな相手とも違った。
「この娘は……まさか」
 魔王は『私』の檻の前に来ると、じっと『私』を見た。
「お分かりになりますか。ええ、我ら魔族が人に産ませた娘です。半魔族ですな。半魔族は感情がないのか、誰もお買い上げにならなくて困っているのですよ。まあ、こんな無愛想な娘をお気に召すとは思いませんが」
「店主」
 視線だけで相手を射殺すか、というほどの殺気をこめて魔王は店主を見る。もはや、店主は何も話さなくなった。
「ほう」
 魔王は膝をついて『私』と同じ目線に位置する。
「絶望しているのではないな。お前は絶望という言葉すら知らない娘のようだ……哀れだな」
 その言葉で魔王が何を言いたかったのかなど『私』には分からなかった。
 次に魔王は立ち上がると「この娘を買う」と言った。
「は、それはもう……ありがたいことですが」
「このまま連れて帰る。体を洗い、服を着せてやれ」
「かしこまりました」
 そしてようやく悟った。
『私』を殺すことになるのは、この魔王と呼ばれた男なのだということが。
 それから『私』は初めて檻から出され、別の部屋に連れていかれた。
 光が多くてまぶしいその部屋は、見たこともない装飾品でいっぱいだった。
 そこで『私』は熱い湯につけられ、体を念入りに洗われた。
 香油をつけて、少年風の服を着せられ、そしてまた連れていかれた。
 その屋敷から外に出ると、先ほどの魔王が『私』を待っていた。
「来い」
 強い口調で『私』を呼ぶ。その迫力に思わず身がすくんだ。

 ──殺される。

『私』は初めて死を意識した。
 今まで『私』を品定めした男たちは『私』を殴りつけている間もどこか笑っていて、楽しそうだった。だが彼は違う。彼は全く笑っていなかった。あらゆるものをその鋭い視線で壊そうとしているかのようだった。その壊す対象として選ばれたのが『私』なのだと悟った。
 自分の周りが変わることで、自分が変わることなどないと、ずっと思っていた。だが、それは大きな間違いだった。
『私』は今、こんなにも、怖い。
「言葉が分からないのか?」
『私』は震えながら、小さく首を横に振った。
「では、来い」
 震えながら『私』は自分の足で、少しずつ『死』に近づいていった。
 揺れながら『私』は自分の目に、少しずつ彼の姿を焼きつけていった。
 完全に彼の射程距離内に入ると、彼はその闇色のマントで『私』を包んだ。
 マントの中で『私』は彼の片腕に抱き上げられる。
「では、行くぞ」
 そのまま『私』は『死』にしがみついた。
 殺される。
 殺される。
 殺される。
 殺される。
 この、今触れている相手に『私』は殺される。
 次第にがくがくと震えた。それは馬車に乗ったからだけではない。
 マントの中で、『私』はしがみついた『死』に怯えていたのだ。
 今まで生きてきた中で最も長い時間が終わり、馬車から降りる。
 そこは、巨大な城だった。
 彼は魔王と呼ばれていた。ここは彼の城、魔王城なのだ。
「お帰りなさいませ」
 たくさんの従者たちが彼を出迎える。
「ああ。この娘を頼む」
 近くにいた鎧武者のひとりに、魔王は『私』を預けた。
「この娘はいかがなさったのですか?」
「奴隷市で買い上げてきた」
「なるほど……それにしても酔狂がすぎますな。今にも死にそうな小娘ですが、これは半魔族ですな」
「だからだ。客間に入れて、食事を与えてやれ。後で俺が行く」
「はい。かしこまりました」
『私』は鎧武者に担ぎ上げられると、そのまま城の中へ連れていかれた。
 いったい、何が起こっているのか分からない。
 今朝からあまりにも急激に変化するこの展開に、正直にいってパニックに陥っていた。
 だが、結末は見えている。
 これから『私』が向かう場所。
 そこが処刑場なのだ。
 やがて『私』は広い部屋に連れていかれた。
 ベッドにテーブル、椅子などが置かれた簡素な作りのものだったが、檻の中に比べれば雲泥の差だ。同時に、この急激な変化に耐え切れなくなりかけていた『私』にようやく落ち着く場所が与えられた気がした。
 椅子に座らされて待たされ、やがて目の前に豪勢な食事が並べられた。
 女性がひとり入ってきて、全く手をつけようとしなかった『私』の口に、優しくスプーンで食事を運んでいく。
 食事は豪勢だったが『私』にはその味が理解できなかった。濃すぎて、最初は吐き出してしまった。どうしてこんなにしょっぱい味がするのだろうか。
 すぐに食事は片付けられた。吐き出した『私』に与える食事はないということなのだろうか、と考えていると、すぐに別の料理が運ばれてきた。
 今度は『私』にも食べられる味付けの薄いものばかりだった。
 これはあくまでも『私』に食べさせるための料理なのだということが、このときになってようやく理解できた。
 少しでも栄養を与えておいて、元気が出たところを嬲られるのだろう。『私』があまりにも痩せこけているのは自分でも理解していた。こんな嬲りがいのない相手を殺しても、きっと何も面白くないに違いない。
 やがて、ようやく食事を終えた『私』に睡魔が訪れた。女性が優しく『私』を抱きかかえてベッドまで連れていく。
 そこで『私』は身を横たえた。獣のように腹ばいになり、身を小さく丸めた。それがいつもの寝方だった。
 女性は部屋から出ていって、一人きりになった。それを確認してようやく『私』は浅い眠りについた。
 やわらかいベッドのせいで、やけに眠りづらかった。
 誰も入ってこない檻と違って、いつあの『死』が『私』を迎えに来るか分からないだけに、落ち着いて眠ることができなかった。
 怖い。
 怖い。
 怖い。
 怖い。
 怖い。
 そして、足音が近づいてきた。
 びくん、と跳ね起きて『私』は部屋の隅に逃げる。
 扉が開く。
 そこに『死』が訪れた。
「……怯えさせてしまったか」
 魔王は部屋の中に入ってくると、ランプに灯りをともした。そして、部屋の隅にうずくまって怯えている『私』の傍まで近寄る。
「怖いか。そうだろうな」
 魔王はもう鎧を着ていなかった。そして『私』の隣に座って『私』を抱きしめた。
「ならば、私はお前が心を開いてくれるまで、こうしてお前を抱きしめていよう」
 意外にも『死』は温かかった。
 今まで『私』に触れた男たちは、皆冷たく、痛かった。
 だが、この『死』だけは。
 心地よい。
 これが『死』の持つぬくもり。
 このまま苦しまずに死ねるのなら、何も言うことはない。
 苦しまずに死にたい。
 この心地よさのまま、死にたい。
『死』とは。
 これほどまでに、心地よいものなのだろうか。
『私』は自然と、その心地よさに身を任せていた。
 それが『死』であっても、もうどうでもよかった。
『私』は初めて、完全に意識を無くした。

 目が覚めると、まだ隣には『死』がいた。
 その『死』は優しく微笑んでいた。
「おはよう」
 言葉が投げかけられる。
「……まだ、話すことは無理か」
 魔王は空いていた手で『私』の髪を撫でる。
「お前は名前がなかったな」
『私』は小さく頷いた。
「ならば、お前は今日から『アリシア』と名乗るといい」

 ──アリシア。それは、魔界に咲く黄色い花の名前。

「お前は今日から、アリシアだ。私はそう呼ぶ」
 コクン、と頷いた。
「私はゾーマだ。呼ぶときはそう言ってくれればいい」
to be continued...






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