外伝5.Arisia

part B













 それからというもの、私は戸惑うことばかりだった。
 いつ殺されるのかも分からないという恐怖、そして同時に与えられる安らぎ。
 その二つを同じ相手から感じるのだ。幼心にも戸惑っても仕方のないことだった。
 ゾーマは、常に優しい顔を私に見せていた。
 だがそれが真実ではないということを私は微塵も疑っていなかった。何故なら、私を買い上げた者が私を殺す相手だということを信じて疑わなかったからだ。
 ゾーマは毎日、私のところにやってきては何も言わずに私を抱きしめた。
 抱かれていると、その暖かさに自分の恐怖が麻痺し始め、いつの間にか眠ってしまうということが毎日続いた。
 そして、私が心を許さない限り、私の身は安全なのだということが分かった。
 私は『そう』理解した。

 ゾーマは私を安心させておいて裏切り、そのときの私の絶望を味わおうとしている。

 だからゾーマの優しさは見せかけで、心を許した途端に豹変するのだと思った。
 だから私は決して心を許さず、この部屋の中でずっと一人で生きていくのだと考えた。
 私には外出の許可など無論与えられなかった。与えられたとしても私はどこに行くつもりもなかった。一日でも長く生きていたいという気持ちが、この場所にとどめさせていた。
 逃げるという概念は当時の私にはなかった。どのみち逃げる場所なんてない。全ての場所は地獄に他ならなかったのだから。
 それに比べれば、この部屋は私にとって天国のようだった。
 いつ襲ってくるか分からない『死』さえ除けば、食事や風呂で困ることはない。衣服も必要なだけ用意されている(といってもいつも同じ服を着ていたのだが)。
 朝、昼、晩と定量の食事を取り、深夜にゾーマがやってくるのがいつものサイクルだった。
 私は食事の時以外は基本的にベッドで丸くなって何も考えないようにしていた。このあたりは『生きる』ということを考えず、日々を生きていくだけの犬猫とたいした変わりはなかったのだと思う。
 夜になるとベッドから離れ、部屋の隅へと逃げ込んだ。頃良い時分になるとゾーマが現れ、私の隣に腰を下ろして抱きしめてくる。
 震えながらゾーマに抱擁される。私の震えは相手にもきっと伝わっていただろう。だが彼は何も言わず、そのまま私をベッドへ横たえ、共に眠った。
 朝が来ると、ゾーマは私の髪を撫でて部屋から出ていく。そして朝食を食べる。
 その繰り返しだった。
 心を開かない私のことをゾーマがどう思っていたのかなどまるで分からなかった。早く私が絶望するところが見たいのだろうか。
 五日が過ぎ、十日が過ぎ、三十日が過ぎ、百日が過ぎた。
 そのサイクルは、それだけの時間が流れても全く変わることがなかった。
 ある日、食事を運んできた女性がついに痺れを切らしたかのように言った。
「あんた、しゃべれるのかい」
 その女性が時分に話しかけてきたのは初めてだった。彼女が自分に殺意がないことは分かっていた。だが、誰も信用できないこの世界で、自分の身は自分で守らなければいけないこの世界で、私は気安く他人に近づいたりはしなかった。誰かが部屋に入ってきたときは、私は必ず部屋の隅まで逃げていた。
 だが、この日の女性は悪意があった。攻撃的だった。何を苛々していたのかは分からなかったが、私のところまで近づいてきて、上から厳しい視線で見下ろしてきた。
 私は恐怖で、腹ばいになって相手から視線を逸らしてがたがたと震える。
「全く。魔王様もどうしてこんな子供を連れて来られたのかしら。魔王様に何もしてさしあげないし、ただ飯だけ食って。自分が養われているっていう自覚があるわけ」
 養われる?
 彼女の言っていることは耳に当然入ってきていたが、その言葉の意味するところは理解できなかった。何しろ、自分は殺されるためにここに閉じ込められているのだから。
 私は私を殺そうとするものに対して、精一杯抵抗しているにすぎない。
 それなのに、彼女は自分に対していったい何を言いたいというのだろう。
「あんたみたいな奴隷上がりを見ていると、苛々するのよっ!」
 その日。
 ついに、私に対する『攻撃』が始まった。
 彼女の右足は、私の左脇腹を正確に蹴りつける。
「奴隷上がりの分際で! 魔王陛下をどうやってたぶらかしたのよ!」
 二度、三度。
 私の体は、痛烈に痛めつけられた。
 そして、彼女は少し息を切らせてから部屋を出ていった。
 私は、ただその場で震えているしかなかった。

 私への『攻撃』が始まった。

 その事実は私を打ちのめした。なんとかして生き延びようとしてきたはずなのに、どうやら自分はここまでらしい。
 ゾーマはいったい自分をどうするつもりだろうか。
 やはりもう、殺すのだろうか。
 いつまでも心を開かない私に豪を煮やし、私を痛めつけ、切り刻み、ぼろ布のように捨てられるのだろうか。
 死にたくない。
 死にたくない。
 生きていたい。
 その思いだけが私の中で何度も何度も駆け巡り、部屋の隅から全く動くことができなくなった。
 がたがたと震え、腹ばいになったまま夜が来た。
 その日の夜は、ゾーマは来なかった。
 どうしたのだろう。
 もしかすると、ゾーマは自分で殺す価値もないと判断し、自分の部下たちに好きにするよう命令したのかもしれない。
 だとしたら、この先は毎日あの女性に痛めつけられるのだろうか。
 彼女のストレス発散のために、その道具となるのだろうか。
 嫌だ。
 助けて。
 痛くしないで。
 結局、その日は朝が来てもゾーマは来なかった。
 私はもう、ゾーマに殺されるだけの価値はなくなってしまったらしい。
 部屋の隅で迎えた朝は、いつもより寒く、空虚だった。
 久しぶりに床の上で一晩を過ごしたため、体中が痛んでいた。
 朝食が運ばれてくる。
 朝食を運んでくる。
 その、女性。
 怖い。
 怖い。
 怖い。
 殴られる。
 蹴られる。
 嫌だ。
 痛くしないで。
 だが、その女性は私を一瞥しただけで、その日は何もしなかった。
 安堵する。
 だが。
 問題は、その後だった。
 食事を一口取った瞬間、口の中に血の味が広がった。
 細かいガラスか何かの破片が食事に混ぜられていたのだ。
 すぐに吐き出す。飲み込む前でよかった。もし飲み込んでいたら、内臓が全て切り刻まれるところだった。
 吐き出した食事は、血にまみれていた。
 口の中が痛い。
 当然、食事などできるはずがなかった。口をあけたまま下を向いて、血が止まるのを待った。
 頃よい自分に、女性が入ってくる。
「何やってんだい、アンタ!」
 づかづかと入ってきて、思い切り私の頬を打つ。
「こんなに汚して! 誰がここの掃除するか分かってるのかい!」
 やめて。
 叩かないで。
 悪くない。私は悪くない。
「罰として今日は食事抜きだよ!」
 どのみち、この口では何も食べられない。
「全く、アンタって奴はどこまで迷惑をかければいいんだい!」
 そしてまた殴られる。
 顔は完全に腫れ上がり、今にも泣き出しそうな自分の顔が相手の瞳に写っていた。
「なんて、イライラする──」
 すると彼女は、全力で自分を蹴った。床に転がった自分を足で踏みつけた。
「あんたなんかに!」
 はあ、はあ、と女性は呼吸を乱していたが、やがて私への攻撃をやめ、食事を片付けて出ていった。
 終わった。
 なんとか切り抜けた。
 ──そう思ったのは、少しの間だった。
 また女性が戻ってくる。
 また、折檻される。
 恐怖に怯えて、部屋の隅に逃げる。
「逃げるんじゃないよ!」
 女性は素早く動いて自分を捕らえる。
 そして、縄で私の両手首を縛った。
「罰として、一日中立ってなさい!」
 思い切り持ち上げられて、そのまま壁にくくりつけられる。
 全く身動きがとれず、ただ両手を上げてひたすら立ち続けるしかない状態。
「明日の朝までそうやってるんだね!」
 扉が閉められて、静寂が戻る。
 よかった。
 少なくともこれで、明日までは痛めつけられなくてすむのだ。
 そう思ったのは、最初の十分だけだった。
 立ち続けることで、次第に足が疲れてくる。
 ふと気が緩むと、手首に縄が食い込んでくる。
 ただひたすら立ち続けなければならない。そうしなければ手首がうっ血してしまう。
 どんなに疲れても、どんなに辛くても。
 ただ、立ち続ける。
 壁があるのが幸いだった。少しは壁が自分を支えてくれる。
 だが、足にかかる負担は相当なものだった。
 一時間もしないうちに、自分は泣き出していた。
 助けて。
 助けて。
 助けて。
 足が辛くて、力が抜ける。
 瞬間、手首が悲鳴をあげる。
 もう、駄目。
 助けて。



 助けて、ゾーマ。



 いつしか、自分の頭の中にその名前が浮かんでいた。
 だが、その夜もゾーマは来なかった。






 翌朝。
 ようやく解放されたとき、彼女の手は完全に緑色をしており、顔は涙でぐちゃぐちゃだった。
 縄を外された瞬間に床に倒れこむ。
 だが、それで終わりなはずが当然なかった。
 彼女は次の責め苦を用意していたのだから。
「おなかすいただろう?」
 嫌な予感がした。
「アンタのために用意したんだ。きちんと食べてもらうよ」
 テーブルを見ると、そこにあったのは。
「……」
 目を丸くしてそれを見る。
 それは、腐った犬の死体だった。
 がくがくと震えて、首を振る。
「食べないっていうのかい」
 女性は私の髪を掴むと、力任せにテーブルまで引きずった。
 頭皮がはがれるかというほどの力。
「ほら、食べるんだ! あんたも拾われた犬みたいなもんだろ、共食いしなって言ってんだよ!」
 腐った犬の死体に顔を埋められる。
「いい気味だ、あんたなんか──」
 そこまで、言った瞬間だった。
「何をしている」
 低い、よく通る声が部屋の中に響いた。
「ひっ」
 女性は、私の頭から手を離し、二、三歩後ずさった。
「アリシア」
 もう聞きなれた声が、私の近くにやってくる。
 綺麗な布で、私の顔をぬぐっていった。
「辛い思いをさせたな。すまない」
 ゾーマ。
 昨日から思い描いていた相手が、目の前にいる。
 ゾーマ。
 ゾーマ。
 ゾーマ。
 震える彼女は、死神にしがみついていた。
 だがしばらくすると、ゾーマは立ち上がって震えている女性を睨みつけた。
「これはどういうことだ」
 恐ろしいまでの殺気。
「へ、陛下。お戻りは、三日後のはずでは……」
「予定が変更になることが、それほど不満か?」
 ゾーマは彼女に近づく。
「俺に拒まれた腹いせか。あさましいな」
「そ、それは──」
 だが、女性は何も言えなかった。
 目に見えないほどのスピードで、ゾーマがその首を刎ねていたから。
 首が落ち、私の体がすくむ。
 そして、ゾーマが振り返った。
「すまない。俺の責任だ。お前をこんな辛い目にあわせてしまった」
 そして剣を放り投げ、死神が私を優しく抱く。
「もうお前から目を離したりはしないようにしよう。万が一の時は、信頼のおけるものを必ず傍に置くようにしよう」
 うっ血した手、壊れた足。腫れ上がった顔。
 その怪我した各所を優しく触りながら、魔王は言う。
「すまなかった、アリシア」
「……こわ、かったの」
 その口から、声が出ていた。
「こわくて、ずっと、よんでたの」
 小さな、か細い声。
 その声を聞いたゾーマが、驚愕で目を見開く。
「きてくれた……ゾーマ。ゾーマ。ゾーマ」
 涙が流れていた。
 痛めつけられていたのはたったの数日間。
 だが、おそろしく長い数日間。
 そして、今。
「わたしを、ころさないで、ゾーマ」
「殺したりなどしない」
 ゾーマもまた、泣いていた。
「お前は私にとって、たった一人の家族だ。アリシア」
「ゾーマ」
 涙は止まらなかった。
 ただ、ずっとゾーマにしがみついて、私は泣き続けた。






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