外伝6.闇の中に潜む影













 自分に意識が生まれたときのことはもう覚えていない。ただ、ぼんやりとした『意識』だけがそこにあった。
 実態はない。ただの『意識体』がそこにあった。
 どういう現象なのかということは考えたこともない。ただ『意識』だけがあって、いろいろと考えるようになった。
 空間も時間も、自分にとっては全てが無意味だった。
 ただそこには『思考』だけがあって『意識』だけがあった。
 ここがどこなのか、自分が何なのか、そんなことはどうでもよかった。
 自分が考えていたのは、たったの一つ。

『何をするべきなのか……』

 形而上学には興味がなかった。
 どこから来たのか、何者なのか、どこへ行くのか。そんな決まりきった問題はどうでもいい。
 この『意識』だけの自分は何をするために生まれてきたのか。何をすればいいのか。
 それだけが警鐘のようにただ鳴り響くばかりで、それ以上のことは全く考えられなかった。
 どれだけの時間が流れたのかも分からない。自分がどの空間にいたのかも分からない。
 どのみち自分には帰るところも行くところもないのだ。好きなように『意識』だけが移動していた。
 そんな折のこと。
「ほう……面白いモノがあるな」
 声が聞こえた。
 いや、自分には実体がないから、自分ではないモノの『意識』が自分に触れてきたというべきだろうか。少なくとも相手からコンタクトを取ろうとしてきているというのは分かった。
「お前、自分が何者か分かっていないのか」
(ナンダ……?)
 初めての『他者』の存在に怯える。
 しかもこの『他者』が危険な存在だということはすぐに分かった。
 気を抜けば、一瞬でこの『意識』は消滅してしまっただろう。
「俺はゾーマだ」
(ぞーま?)
「個体識別情報、といえばいいか。全てのモノには識別情報としての『名前』があるのだ」
(ナマエ?)
「そうだ。お前には名前はないのか? 愚問か。他者の存在がないのなら、識別することの必要性は皆無だからな」
(ワタシハ?)
「そうだな……ではお前のその『意識体』であることをふまえて、こう名乗るがいい。シャドウ、と。それが今日からお前の名だ」
(しゃどう……)
 名を与えられた瞬間、この『意識』は実体化を始めた。
 意識が形となる。その形は『影』。影が実体化してこの地上に初めて具現化する。
(私は……)
「お前はシャドウだ」
(私は、シャドウ……)






 こうして長い時を経て、その『意識』は実体化した。
 何を成せばいいのか、何を成すべきなのか。
 実体化した後も、常にそればかりを考えていた。
 そしてただ何事もなく時間ばかりが過ぎていった。
 自分が魔族であるということを知ったのもこのときなら、自分があまりにも特殊であるということを知ったのもこのときだった。
 自分は影そのもので、影を操り、影を同化することができる。これは魔族の中でもかなりの変異体ということであった。
 別にそれ自体はどうでもいいことだった。そして自分が生まれてきた意味にも価値はない。
 自分が求めていたことはたった一つだけ。
 何をすべきなのか。
 ずっとずっと考え続けてきた影にとって、何かを成すということ自体が貴重で、大切で、尊いものだった。自分が何者かも、どこから来たのかも、どこへ行くのかもどうでもいい。何かをしたい、だがその何かが分からない──ひどく焦っている自分に気づく。
 彼にとって、一番話しやすい相手は、自分の名づけ親だった。
「暇をもてあましているようだな、シャドウ」
 識別信号としての名前は有用だった。ものに名前があるということもこのゾーマから教わった。そうやって全てのものが識別されるのだということも。
 ただ面白いのは、彼が着ている鎧も、自分が来ている鎧も、同じ『鎧』と呼ばれることだった。不思議なものだった。この世にある全ての影は一つとして同じものはないというのに。
(何か?)
「何もすべきことがないなら、俺の要請を引き受けてはくれないか」
(要請?)
「そうだ。お前にしかできないことがある。そしてお前にならできることがある」
 その言葉には興味を惹かれた。
 自分でなければできないこと──そう、自分は常にそれを求めていたのだ。
(それは?)
「護衛、といったらいいかな」
(護衛?)
「そうだ。俺のたった一人の家族の命を守ってもらいたい。常に彼女の傍にいて、彼女のために行動してほしい。お前はどのような影にでももぐりこめるのだろう。であれば、ずっと彼女を影から見守ってほしいのだ」
 護衛とは、つまらないようなことだと思った。
 だが、この名づけ親の頼みをむげに断ることもなかった。
 他にやることもない。それに、その護衛をやっていくなかで新しい発見があるかもしれない。
 とにかく今は、目の前に道が開けた。それをもってよしとしよう。
(了承した)
「ありがとう。彼女は──」
(知っている。アリシア、だな)
「知っていたのか」
(この城の中の影は全て把握した)
 魔王が微笑を浮かべる。それを見た影は、魔王自身の影から姿を消した。






 それから、しばらくの時が流れた。
 悪意を持つものはすぐに理解できる。影はその本体を映す鏡だ。影の中にいる限り、誰も自分を騙すことはできない。
 小さな彼女に悪意を持って近づく者は、容赦なく屠った。そして、その数を魔王に報告したとき、魔王はひどく驚いていたようだった。
 一年で彼女を害そうとした件数が二十七回。後で考えれば確かに少ない回数とは言えなかった。ほぼ数日に一回くらいの割合で起こっていたため、それが当然なのだろうと思っていた。それだけの重要人物であるのだと思っていた。
 もちろん自分の存在は彼女に悟られていなかった。魔王が傍にいないときは必ず自分が彼女の影に潜み、魔王がやってきたときは二人の傍から離れ、邪魔者が来ないかどうかを探った。
 だから、魔王が何をしたかったのかは知らない。ただ自分は、魔王がそう望んだから、そのようにしていただけだった。それが自分の成すべきことであったとは思わない。この城に来てから数年して、この大陸は闇に閉ざされた。自分にとっては活動しやすい環境だった。魔王が何のためにそうしたのかは知らない。だが自分にとっては都合がよかった。それで充分だった。
 彼女は少しずつ成長し、美しい女性と変わっていった。彼女の心は透き通っていて自分が潜む影の中では最高の部類に入っているのだが、客観的に見て外見も非常に整っていた。
 心にたくさんの傷を負いながら、純粋にゾーマを愛する娘。
 彼女を守ることも、別にそれほど悪くはないと思いかけていたときのことだった。
「あなたは誰?」
 彼女の目が自分を捕らえた。彼女がじっと彼女自身の影を見つめていた──つまり、自分を見ていた。
 明らかに、自分の存在を把握していた。
「影さん、あなたは──ずっと私を守ってくれていたのでしょう?」
 この娘は知っている。
 自分のことに気づいている。
(どうして?)
 その影が膨れ上がり、騎士の姿を取る。
「どうして気づいたのって? ゾーマが言ったもの、必ず信頼のおけるものを私の傍に置いてくれるって。あなたが最初に私の影に入ったときから、ずっと私はあなたのことに気づいていたわ」
 彼女はこの数年でよく話すようになっていた。口調もきびきびとしたものになっていた。
 まさに、姫、という言葉がふさわしい。
(何故?)
「どうして言ってくれなかったのかって? だって、あなたは私に正体を悟られないようにして守ってくれていたんでしょう?」
 だが、それならおかしなことがある。どうして彼女が自分に気づいていたことを、自分は分からなかったのか。それに、影に潜んでいる自分を見つけられたこと自体が既におかしい。
「それが私の力なのかな。すごい直感が働くの。半魔族の力、なのかも」
(どうして?)
「質問ばかりなのね。どうして今になって言うつもりになったのかって? 簡単なことよ。あなたと、お話がしてみたかったの。だって、私の周りには私の命を狙っていたり、ゾーマに取り入ろうとして近づいてくる方しかいないんですもの。だから、普通の話し相手がほしかったの……ね、お名前、何ていうの?」
(シャドウ)
「素敵なお名前ね」
 彼女は綺麗に笑った。
(アリシア、という名の方が素敵だ)
「ありがとう。とても嬉しい」
 彼女はそう言って、そっと手を伸ばす。自分に触れようとしたのだ。
 だが、自分の体はあくまでも影。彼女の手がゆっくりと自分の体の中に入り、彼女の手にレスポンスが戻ることはない。
「痛くない?」
(痛い?)
「だって、体、突き抜けてるよ」
 彼女の手は自分の体を貫いていた。
(何も感じない)
「そうなんだ」
(私はエネルギー生命体。ゾーマによって命を与えられたもの。意識が消滅することはなくとも、ゾーマのエネルギーがなければこうして実体化することすらできない)
 彼女はじっと自分を見つめてくる。その若草色の瞳に少し涙が浮かぶ。
「怖くない?」
(そうは思わない。何かを成すことができれば、自分にも生まれてきた意味があると思える)
 それが自分の願い。
 何かを成すこと。それ以上のことを考えたことは一度もない。
「分からないの?」
(分からない。そしてこの問題は──)
 そう。ある程度の達観はしている。
(──きっと、最後まで解けない)
「そう」
(だから今は、アリシアを守ることが自分の成すべきこと)
「ありがとう」
 彼女は両腕を広げて、そして優しく自分を抱きしめるかのような素振りをした。
「ありがとう。ずっと助けてくれて」
(……)
「シャドウ。私からもお願い」
(なんなりと)
「もし、ゾーマがピンチのときは、ゾーマを助けてあげて」
(無論。ゾーマが亡くなれば自分の存在も消える)
「もし私の命が危険だったとしても、ゾーマの方を優先して」
 彼女のその言葉にはさすがに答が出なかった。
(だが)
「私もシャドウと同じだもの。ゾーマがいなかったら生きていけない。ゾーマだけが今の私の全て。私の命よりも、ゾーマの方が大切なの。だから、お願い」
 彼女の声には一分の曇りもなかった。彼女が嘘をついたりするはずもないことはよく知っている。
(了承した)
「ありがとう」
(感謝されることではない──その、魔王が来たようだ)
「え?」
 彼女は振り向く。そこに、威厳を備えた男が立っていた。
「ゾーマ」
「シャドウ。実体化していたのか」
(すまない)
「いや、気にすることはない。こいつもお前のことには気づいていたようだったからな」
 彼女は彼の腕の中で、幸せそうに微笑んでいた。その彼女の頭を彼は優しくなでる。
(──)
「どうした?」
(いや)
 何ともいえない感情が起こり、影の中に潜る。
 二人の姿を、どうしてか見たくなくなっていた。
 そう、彼が彼女の頭を優しくなでていたとき──

 実体のない自分が、あまりにみじめだと感じた。

(自分が成すこと)
 なんとなく見えてきた気がした。
 それは。
(自分の体を手に入れることだ……)
 そうしなければ、自分は先に進めない。
 そうすることで、自分は先に進むことができる。
 だが、それはどうすればいいのだろう。
(きっと方法はある)
 そう信じる。
 信じて──その方法を探し続ける。






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